雑記

雑記

長めの二〇四一年 七月 九日 水曜日

よのなかを 厭しと恥しと 思へども 
 飛び立ちかねつ 鳥にあらねば

本日の日記は少し長めです。

朝、六時過ぎに起きました。
携帯のアラームはすっかり鳴り止んでいました。
慌ててテレビを点けました。ワールドカップの準決勝――ブラジル対ドイツを観たくて早起きしようと思ったのです。
日本時間で午前五時キックオフだったので、前半は見逃してしまいました。
そんなうっかり気分も、画面を見るやいなや、すっかりガッカリな気持ちになりました。
ドイツが前半だけで五点をとった、という惨憺たる知らせ。
ブラジルはシュート数二本でハーフタイムをむかえたとのこと。後半はもう見ていられないような会場の雰囲気。

1-7という誰しもが予想だにしなかった結末。

お察しの通り、私はブラジルを応援しておりました。
いまブラジルでは、経済危機によりワールドカップどころではない人々がたくさんいらっしゃるようです。
その実態はいまいち把握できないのですが、ブラジルチームが優勝することは、おしなべて決して悪くないことだろうと思っていたのです。
 
雨も降っていて、いろいろと落ち込んだ気分で学校に行きました。
クラスでも試合の話題で盛り上がっていました。
殊に、サッカー部の男の子たちはミュラーがどうとかクロースがいいとか、ドイツの上手さ強さを讃えていました。

一限目は世界史の授業でした。その世界史の先生がW杯開幕直前の授業中で、ブラジル国内の経済事情について熱弁を振るっていたので、私もそのことについて考察するようになったのです。

しかし、今日はあっさりとしていました。
「いやぁ、酷い試合だったねー。ネイマールを怪我させたあの選手はどうなるんだろうねー」
と言って、中世ヨーロッパについての授業が始まりました。

下校時になり、みんなちりじりになってそれぞれの放課後を過ごします。
私は一旦家に帰って、すぐにアルバイト先に向かいました。
まだ雨が降っていて、いよいよイライラしてきました。

勤務先のファミレスにつくと、すぐに「今日は暇だ」と気がつきました。
平日の雨。という枕詞は、暇なファミレス、に付きます。ふふふ。

ホールは店長と私、キッチンはMさん(男・推定40代)とTくん(大学生)。
本当に暇なので(5-9時でお客さんは12組だった)、店長と色々お話をしました。
店長は二年前に結婚して、去年子どもを授かったそうです。おめでとう。
店長は若かれし頃はバンドマンとして一花咲かせようとロックンロールを決め込んでいたそうですが、二十代を過ぎた頃から夢を諦めて就職したそうです。
こうして履歴書まがいに説明するとろくでもない人に思われるかもしれませんが、実際の店長は尊敬に値する素晴らしい方です。男って感じです。
今は家族の為に仕事を頑張ってます。でも、私が店長に対して頭が垂れるのは、店長が文化的で何事にも興味を持ち勤勉だというところです。
今日も例のブラジルの話をしました。それも、うざい大人みたいな持論を展開するのではなくて、私の幼い言葉に真剣に耳を傾けてくれるのです。
店長は小説も好きなようです。ガルシア=マルケスについて色々喋ったりしました。
ブラジルが地球にあることもわかっているし、だからといって学生ボランティアみたいな偽善的な態度も取らない店長はかっこいい。


私は九時にあがりました。店長はたぶん十二時くらいまで働くのでしょう。
店を出ると雨が上がっていました。嫌な気分などとうに消えてしまいました。
 
家に帰ると、親の姿をみて、すこし申し訳ない気持ちになりましたが、すぐに苛立たしくなりました。

現代社会では、何かをやる=稼ぐことにすぐ直結させたがる大人が多いです。

・ギターを弾くのはミュージシャンを目指す人だけだからそんなことするのは無駄。
・小説をちょびっと読んでみたから僕も書いてみようそんであわよくば新人賞に応募しちゃおう。
とか、あらゆる教養の扱い方を取り違えている人がたくさんいらっしゃる。
リベラルアーツ関連の本からの受け売りだけどね(笑)

ここから先は私の見解です。
大人になると、全てを諦めて厭世的になる人もいれば、世界と僕があーだこーだと知恵人ぶっていつまでたっても中二病が抜けない人がいるような気がします。
前者は徹底して利己的で合理的な人に、後者はアーティスティックな人にそれぞれなれればいいのだけれど、殆どの人は中途半端になって死ぬんでしょう。
もちろんどちらかになる必要はありませんが、中庸普通でいたいとわざわざ言うようのは、「自分には才能がある」と思い込んでいる自尊心自意識過剰な己の愚かしさを認めながらも人には言えないという更に悍ましい行いです。



店長のように、「自分の懐を豊かにする何か」を諦めても卑屈にならず、「自分の人生を彩るために必要な何か」を探すことは決して諦めない背中に男の器量というものを感じます。


冒頭の和歌は、万葉集に入っている山上憶良貧窮問答歌です。
わたしたちは鳥のように飛び立つことはできませんが、地べたに這いつくばっても「生きのびる」ことができます。それを醜いと思ったり恥ずかしいと人前から隠れたりそれが人生だと足を引っ張りあったりするのか、それとも人間がもつ底知れない力だと自負するのか。
どちらにしても、パソコンの前ではなく人の前でこそあらわれる態度なんだと思いました。


長。。。